子育ては、あまりにも生活に近すぎる。
だからこそ、言葉にするのが難しい。
言語化とは、「距離をとること」
何かを言語化するということは、
その対象をいったん外に置き、見つめ直すことでもある。
言い換えれば、
「語る私」と「語られる対象」とを切り離すこと。
つまり、少し距離をとることが必要になる。
でも、子育ては距離を許さない
ところが、子育てという営みは、
その余白をほとんど与えてくれない。
一日中、子どものことを考え、
身体も時間も奪われ、
全存在を使って向き合う。
そこには、「少し距離をとって考える」ような余裕は、ほとんどない。
だから、言葉にならない。
だからこそ、言葉が必要になる
それでも、いや、だからこそ、
言語化を助けてくれるものが必要になる。
誰かの書いた文章を読んで、
「わかる」「あるある」と思えたとき、
それだけで、少し救われる。
孤独の中に沈みそうだった自分が、
ふっと水面に浮かび上がるような感覚。
それは、大きなセーフティネットになる。
見えにくい孤独
子育てには、さまざまな孤独がある。
- パートナーとの心理的な距離
- キャリアの断絶
- 周囲からの無理解や矮小化
- 社会から取り残されたような感覚
どれも、目に見えにくく、
だからこそ、言葉にされないまま、内側に積もっていく。
言葉が、価値をつくる
子育ての時間が「価値あるもの」であると実感できるかどうかは、
その経験が言葉としてすくい上げられるかどうかにも関わっている気がする。
自分の感じたこと、考えたことを、
言葉にしてみる。
それによって初めて、
その時間が、自分にとってかけがえのないものであったと確認できる。
「コトバ」は、言葉だけではない
ここでいう「コトバ」は、
必ずしも文章や会話だけを指すものではない。
エッセイでもいい。
日記でもいい。
詩でもいい。
音楽でも、絵でもいい。
自分の中にあるものを、
外に表すことができるなら、方法はなんでもいいのだと思う。
子育ての時間を、ひらくために
子育ての時間は、
ただ消費されていくものではない。
それを言葉にし、
誰かと共有できたとき、
その時間は少しずつ意味を持ちはじめる。
そして、もしかするとそれは、
個人にとっても、社会にとっても、
豊かな時間へと変わっていくのかもしれない。

