🌱1分de知の種 Seed.32(2025.11.14)
~「よし、もう一度この人生を」~

気づきの種が、思索の木となり、やがて知の森となる。
日々の中に、静かに芽吹く気づきを。

今回は、こちらのひと粒をお届けします。

「一つ! おお人間よ! しかと聞け!
二つ! 深い真夜中は何を語るか?
三つ! 『私は眠った、私は眠った──、
四つ! 深い夢から、いま目がさめた。──
五つ! 世界は深い、
六つ! 昼が考えたよりも深い。
七つ! 世界の苦しみは深い──
八つ! 悦び──それは心底からの苦悩よりもいっそう深い。
九つ! 苦しみは言う、「終わってくれ!」と。
十!  しかし、すべての悦びは永遠を欲する──、
十一! ──深い、深い永遠を欲する!』」

出典:西 研.『NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ』(NHK出版, pp.77-78)より

ニーチェは語ります。

われわれの魂がたった一回だけでも、絃のごとく幸福のあまりふるえて響きをたてたなら、
このただ一つの生起を引き起こすためには、全永遠が必要であった。
すなわち、たった一度でもほんとうに魂がふるえたことがあるなら、その人生は生きるに値するだろう。
悲しみ、苦しみをひきつれて「よしもう一度この人生を」といいうるだろう、と。

しんどかったことも、苦しかったことも、
それがあったからこそ出会えた人がいて、
それがあったからこそ味わえた喜びがあり、幸せがある。

もし人生のどこかで、
魂が「絃のようにふるえた」瞬間が、一度でもあったなら──
たとえそこに悲しみや苦しみがセットでついてきたとしても、
それごと抱きしめて「よし、もう一度この人生を」と言えるかどうか。

それが、ニーチェの言う「永遠回帰」を、
自分の人生の言葉に引き寄せて考える、ひとつの問いなのかもしれません。

人生を全肯定できること。
いつかそっと、そう思える瞬間を持てたなら、
それはたしかに「幸せ」と呼べるのだろうと思うのです。


🌱今日のひと粒

たった一度でも、心がふるえた瞬間があるなら、
その人生は、生きるに値する。
そして言うのだ。「よし、もう一度この人生を」と。

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