気づきの種が、思索の木となり、やがて知の森となる。
日々の中に、静かに芽吹く気づきを。
今回は、こちらのひと粒をお届けします。
「わが子をどこか知らないところから飛んできた種のように受け入れること。
そして、わが子が私にはわからない言葉を話し、私には決してふれることのできない見知らぬ他者であるがゆえにいっそう、わが子を愛すること。
そのようなことは可能であるだけでなく、そのようにしてしか人はわが子を愛することはできない、とデリダは言うのです。
なぜなら、おそらく愛という言葉を語ることができるのは、他者との間でしかないからでしょう。
わが子もまた他者である。しかし、ある特別な仕方で出会ってしまった、ある特別な他者である。
親となるということは、こうした他者を受け入れることを学ぶことに他ならないように思われます。」― 森田伸子『子どもと哲学を』(勁草書房)より
子が生まれたからといって、すぐに「親」になるわけではない。
親になるとは、日々の関係の中で少しずつ「他者」を受け入れていくことなのかもしれない。
わが子は、どれほど愛しくても、完全には理解できない。
まるで、どこか知らない世界から飛んできた「小さな種」のように。
その存在は、私の想定を超えて芽吹き、思いもよらぬ方向へと伸びていく。
だからこそ、思う。
「親になる」とは、わが子を自分の一部として囲い込むことではなく、
わからないまま、異なるものとして受けとめ、見守ること。
今のところ、圧倒的に「他者感」のあるわが子を前に、
親になるとはどういうことなのか――その意味を、ゆっくり考える日々である。
🌱今日のひと粒
わが子は、特別な他者。
親になるとは、その他者を受け入れることを
日々、学んでいくこと。

